1515年
(永正12年2月)
願成寺六世堅叟榮固大和尚(示寂・永正13年・1516年)を二世とし、開山和尚を師の願成寺五世梅洲秀芳大和尚として開山
1547年
(天正2年)
葛西家臣、小野寺左馬之丞清俊によって前堀城郭内に伽藍建立。その時の住持は三世で願成寺七世自栄従予大和尚と思われる。開基殿の墓として寺の西側、東北本線の傍らの現在の共同墓地内に五輪塔(一関市文化財)があり、傍にはひとまわり小さい家臣の墓と思われる五輪塔三基がある。
1738年
(元文3年)
九世月鈎容輪大和尚時代阿弥陀如来石佛(作者不明)建立。
蓮華台座共二尺一寸(63cm)。月鈎和尚は上黒沢の龍谷山長泉寺六世、岩井郡赤児(宮城県栗原市金成)の馬宝山玉泉寺十一世も務めた。当山住持の年代は寛保3年(1743年)以前と思われる。
1775年
(安永4年7月)
十二世皷山泰林大和尚代に「安永書出」を提出。その時の本堂は南向きで堅七間半(13m)横四間半(8m)で、本尊は虚空蔵菩薩(長四寸・12cm)であった。
1813年
(文化10年3月)
石造り五重塔建立。高さ十尺六寸(3.21m)、台座三尺四寸(1.30m)・小野寺又三郎寄進、石工永作と弟子源三郎、又七による。
1868年
(明治9年5月9日)
二十四世徳潤洲雄大和尚(示寂明治24年・1891年)代、一関町に大火があり四百十一戸焼失。その時の飛火により伽藍・諸佛・庫裡などを全焼した。この火災以前は参道両側に杉木立のある格式の高い禅寺の外貌を誇っていた。その後仮本堂建立。
1913年
(大正2年)
「稲作照井太郎観音大菩薩碑」建立。二十五世大仙覚堂(道)開眼主。照井太郎高春は藤原秀衡の家臣で、この地方に照井堰をつくり開墾に務めた功により神社に祀られた伝説の人物。大仙和尚はこれを五穀豊穣祈願のお守り札として発行した。
1919年
(大正8年)
二十五世中興大仙覚道大和尚(示寂昭和16年・1941年)代に東北本線の石炭を燃料とする蒸気機関車の飛火によって本堂焼失。歴史的古文書一切を失った。
1929年
(昭和2年)
同和尚代、豊川稲荷を勧請する。
1941年
(昭和16年4月)
御本堂として南無釈迦牟尼佛、脇佛に文殊菩薩・普賢菩薩を拝請開眼。作者佐久間白雲師(高村光雲の孫弟子・東磐井郡大東町出身)
1947-1948年
(昭和20-3年)
二十六世大機天晃大和尚代(示寂昭和47年・1972年) カスリン・アイオン台風の災害のため佛像・書物・過去帳などを流失。
1950年
(昭和25年3月)
長泉院旧御本尊虚空蔵菩薩復元勧請開眼(座高四寸五分、厨子高八寸五分)。作者高村光雲門弟佐藤瑞圭師。
1973年
(昭和48年)
二十七世大雲晃道大和尚(示寂平成8年・1996年)代、上川・磐井川遊水池造成・堤防拡張工事により南側百メートルの現在地に墓地・庫裡などすべてを移転。
1975年
(昭和50年2月)
諸堂宇落慶、墓地移転完了
1976年
(昭和51年3月)
山門復興
1983年
(昭和58年)
客殿建立
1997-1998年
(平成9-10年)
二十八世大峻道将(現住)代 北側新墓地造成
2008年
(平成20年)
本堂竣工